松浦大悟的2025年LGBT映像 第2位、第1位は?
第2位は、映画『教皇選挙』
私が選んだ2025年LGBT映像の第2位は、映画『教皇選挙』とさせていただきました。その理由は、これが福音派への反論として描かれているからです。LGBTをめぐるリベラル派と保守派の対立は、この二つの思想のぶつかり合いだといっても過言ではありません。はっきり言って、左派を貶めたいがための「反同性婚論」「反トランスジェンダー論」や、右派を貶めたいがための「反・反同性婚論」「反・反トランスジェンダー論」などどうでもいい。肝要なのは「主意主義/主知主義」についての構えなのです。どういうことか、詳しく見ていきましょう。
(ここからは、映画の内容に少しだけ触れます。ネタバレを気にされる方は、読み飛ばしてください。)
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『教皇選挙』が訴えていたもの
2025年に公開された話題作『教皇選挙』は、カトリック教会の総本山・バチカンのトップに君臨するローマ教皇を決める選挙「コンクラーベ」を舞台にしたストーリーなのですが、上映期間中にフランシスコ教皇が88歳で亡くなったこともあり、日本でも観客数が激増しました。
あらすじはこんな感じです。ある日、ローマ教皇が心臓発作で急死してしまいます。悲しみに暮れる暇もなく、次のローマ教皇を選出する教皇選挙「コンクラーベ」を執行することに。選挙は全世界から集まった100人以上の枢機卿によって行われるのですが、誰かが投票総数の3分の2以上を得るまで数日間かけて延々と繰り返されるのです。遮断された内部では、信者数14億人を誇る宗教組織の最高位をかけて保守派とリベラル派が対立します。嫉妬や野心、根回し工作。およそ聖職者とは思えないようなスキャンダルが次々と噴出し、どの候補者も「帯に短し、襷に長し」。
そこに登場したのが、メキシコ出身で昨年前教皇によって枢機卿に任命されたばかりのベニテス氏(アフガニスタン・カブール教区所属)でした。コンクラーベの途中で起こった礼拝堂への爆破テロがイスラム教徒による仕業だとわかり「これは宗教戦争だ。奴らを殺せ!」と紛糾する原理主義者たち。しかし、ベニテス氏は「暴力には暴力で対応してはいけない」と彼らを諭します。これが枢機卿たちの心を動かし、新教皇に選出されたのです。
ところがベニテス氏には秘密がありました。彼はインターセックス(性分化疾患)だったのです。性自認は男性ですが身体は女性で、遺伝子の染色体も女性とのこと。カトリックでは男性しか聖職者にはなれないため、悩んだベニテス氏は生前の前教皇に相談しました。すると前教皇は「子宮の摘出をすれば問題ない」と答えたのです。これに一度は納得したベニテス氏でしたが、信仰と向き合う中で手術を思いとどまります。なぜなら「神が創造した自分の体を作為的に変えるのはやはりおかしい」と気づいたからです。創造主は完璧な計画のもとに万物を作っているのだから、子宮を除去することはその神を否定する行為になる、というわけです。ご賢明な読者の皆様は、もうお分かりだと思います。そう、これこそ、LGBTを絶対に認めようとしない福音派への対抗理論なのです(インターセックスはLGBTとは違うカテゴリーですが、トランスジェンダー問題に一石を投じる意図があることは間違いないでしょう)。
今年ベストセラーになった加藤喜之著『福音派ー週末論に引き裂かれるアメリカ社会』
LGBTを絶対に認めない福音派の論理とは?
2022年のピュー研究所の調査によれば、福音派は米国の人口の25%近くを占めています。そして、その6割を超える人たちが世界は終わりつつあると信じています。彼らにとって、現代の政治的・社会的な対立は、終末に向かう世界における善と悪の戦いの一部として理解されているのです。
「善と悪の戦い」における「悪」とは何か?それは、神の創造の秩序を乱す人たちのことです。神の言葉を綴った聖書は、同性愛を認めていません。だから彼らは「同性愛者は地獄の業火で焼かれる」と主張します。「悪」を倒すことは、キリスト再臨後の千年王国、それに続く最後の審判を迎えるにあたっての前提条件だからです。彼らはそれを「善行」だと考えています。
ではトランスジェンダーについてはどうでしょうか?聖書にはトランスジェンダーに関する記述はないものの、創世記に「男と女とに彼らを創造された」と書かれていることから、神は二つだけの性を造ったと解釈されています。よってトランスジェンダーのように性を越境する存在はあり得ないのです。トランプ氏がアメリカ大統領就任後に出した最初の大統領令が「性別は男と女の二つだけ」だったのは、支持母体である福音派への配慮があったものと思われます。
映画『教皇選挙』は、こうしたロジックを逆手に取りました。「LGBTは神の創造の秩序を乱すというが、そもそも神に失敗作はあるのか?どれが成功作でどれが失敗作かを人間如きが決めていいはずがない。それは神を疑うことであり、神が一番嫌う行為である」と、問いを反転させたのです。つまり、「最後の審判で地獄に落ちるのは、神を信じていないあなたたちの方だ」と。
これは、社会学の分野ではマックス・ウェーバーの「神強制/神奉仕」としてよく知られた概念枠組みです。「良いことをしたから救ってください。良いことをしたのに救ってくれないのは何故ですか?」と神に取引を持ちかけるような行いをマックス・ウェーバーは神強制と呼んで軽蔑しました。同じ善行を行う場合でも、「最後の審判で救われたいから」という下心から善行を行う人は、利他主義ではなく単なる利己主義に他なりません。
その逆が神奉仕です。聖書にある『善きサマリア人のたとえ』のエピソードがその代表例です。「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、強盗どもが彼を襲い、その着物をはぎ取り、傷を負わせ、半殺しにしたまま、逃げ去った。祭司もレビ人も怪我人をさけて道の反対側を通りすぎたが、被差別民であるサマリア人だけが彼を助けた。さて、この三人の中で『隣人』にしたいのは誰か」とイエスは問いかけました。もちろん隣人にしたいのは、姑息な計算なく怪我人を助けたサマリア人でしょう。キリスト教は、律法として固まった善行の教えがあるわけではなく、むしろ厳格な戒律主義を否定しています。神は絶対者、人間は相対者。神は取引をしません。誰が救われるかは最初から決まっているのです。だからこそ私たちは、ただただ神に奉仕すべきなのです。映画『教皇選挙』は、そのことをLGBTという今日的問題に引きつけて描きだしたのでした。
社会学者の宮台真司氏によると、「主意主義」とは人間の精神である意思の働きを重視する思想のことであり、「主知主義」とは感情や意思よりも知性を重視する思想のことです。主知主義はシステムがちゃんとすれば人は幸せになれると考えますが、主意主義はシステムがちゃんとすると人はさらにシステムに依存し、自ら動いて助けようという意欲がなくなると考えます。これまで主意主義は右翼、主知主義は左翼に多いと思われてきましたが、聖書というシステムに依存している福音派は、この定義で言えば主知主義に入るのではないでしょうか。映画『教皇選挙』のベニテス枢機卿の方がよっぽど主意主義に見えてしまうのも、この作品の仕掛けの一つだと言えるかもしれません。